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東京地方裁判所 平成5年(ワ)1420号 判決 1996年3月28日

原告

大嶋久光

大嶋洋子

右二名訴訟代理人弁護士

藤本正

被告

株式会社電通

右代表者代表取締役

木暮剛平

右訴訟代理人弁護士

松嶋泰

寺澤正孝

相場中行

松嶋泰訴訟復代理人弁護士

竹澤大格

主文

一  被告は、原告ら各自に対し、それぞれ金六二九四万〇二九四円及びこれらに対する平成三年八月二八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は、これを一〇分し、その四を原告らの負担とし、その余を被告の負担とする。

四  この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一  原告らの請求

被告は、原告らに対し、金二億二二六〇万七〇〇〇円及びこれに対する平成三年八月二八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

本件は、被告の社員訴外大嶋一郎(以下、「一郎」という。)が、入社後約一年五カ月後に自殺したことから、一郎の父母である原告らが、被告に対し、一郎は被告から長時間労働を強いられたためにうつ病に陥り、その結果自殺に追い込まれたとして、民法四一五条又は同法七〇九条に基づき、一郎の死亡による損害の賠償を請求した事案である。

一  争いのない事実

1  一郎の身上、経歴、被告における業務内容等

(一) 一郎は、原告大嶋久光(以下、「原告久光」という。)を父とし、原告洋子(以下、「原告洋子」という。)を母として、昭和四一年一一月三〇日に生まれ、平成二年三月、明治学院大学法学部を卒業し、同年四月一日付けで被告に入社した。一郎は、同期入社一七九名の一員として二カ月間の新入社員集合研修を受け、同年六月一日付けで、同期三名とともにラジオ局に配属され、同局内研修を経て、同月一七日付けで、同局ラジオ推進部に配属された。

(二) 右当時の同部の部長は訴外滝口昌明(以下、「訴外滝口」という。)であり、同部には一三名の社員が所属していた。同部には、中堅社員をリーダーとする二つの班があり、一郎は、参事であった訴外坂本康治(以下、「訴外坂本」という。)をリーダーとする班に所属した。右班は、営業局として九つの局を担当していたが、一郎は、訴外坂本他二名とともに、そのうち築地第七営業局と入船第八営業局を担当した。同部における一郎の業務は、放送される番組を提供するスポンサーを決めていく作業、及び、決定されたスポンサーのフォロー作業であり、スポンサー、被告の営業局及び放送局と連携しながら、業務を進めるというものであった。

2  一郎の自殺

一郎は、平成三年八月二三日夜遅く、業務のため、自動車で八ケ岳原村のイベントに出掛け、同月二七日午前六時ころ帰宅したが、同日午前一〇時ころ、自宅において自殺した。

3  相続

原告らは一郎の両親であり、一郎の死亡により、法定相続分に従い、同人を二分の一の割合でそれぞれ相続した。

4  被告会社のモデル年収

平成四年当時の被告会社のモデル年収は、別表「資格及び年次」欄、同「年齢」欄及び同「年収」欄記載のとおりである。

二  争点

本件における主たる争点は、一郎の被告における労働時間が、社会通念上許容される範囲を超えた過剰なものであったかどうか、過剰なものであったとして、一郎の長時間労働と自殺との間に相当因果関係が認められるかどうか、また、一郎が過剰な長時間労働をしていたことにつき、被告に安全配慮義務違反等の過失が認められるかどうか、である。

1  一郎の労働時間の過剰性

(一) 原告らの主張

(1) 一郎の労働時間

一郎の労働時間を推定する資料としては、深夜退館記録簿、監理員巡察実施報告書及び勤務状況報告書がある。このうち、勤務状況報告書は、社員が自ら申告して作成するものであるところ、申告時間が事実上規制されていたことから、その内容は真実を反映していない。監理員巡察実施報告書は、監理員が、午後六時以降翌朝まで、一時間ごとに巡回して在館者を記録するものである。また、深夜退館記録簿は、被告会社の建物が閉鎖される午前二時以降の退館者が、退館時にサインするものであり、これに基づいて、被告は、一郎が最終退館者であったときの記録をまとめている(甲三。以下、「最終退館記録」という。)。そこで、監理員巡察実施報告書と最終退館記録とを照合すると、午前二時以降の退館時刻はほぼ一致し、いずれも客観的な状況を示す文書ということができる。したがって、一郎の労働時間を確定するに当たっては、まず、最終退館記録及び監理員巡察実施報告書を基にし、右二つの文書に記載されていない日については、勤務状況報告書によるべきである。

以上により、一郎の労働時間を算出すると、平成三年一月から八月までの一カ月当たりの平均残業時間は一四七時間に及ぶことになる。実際には、勤務状況報告書に記載しないサービス残業もあるから、真実の残業時間は一カ月当たり一四七時間を大きく上回る。

(2) 一郎の労働時間の過剰性

被告における正規の労働時間は、午前九時三〇分から午後五時三〇分までの休憩一時間を除いた七時間であり、土日休日制であることから一カ月当たりの稼働日を二一日とすると、一カ月当たりの所定労働時間は一四七時間である。これに、前記推定残業時間一四七時間を加えると、一カ月当たりの労働時間は二九四時間となり、年間では三五二八時間となる。

一般に、過労死する危険性のある長時間労働のボーダーラインは年間三〇〇〇時間であると言われているから、一郎の労働時間はこれを五二八時間上回ることになり、現在政府が目標とする年間労働時間一八〇〇時間の約二倍であるということになる。しかも、実際には、記録に現れていないサービス残業時間もあるから、一郎の真実の労働時間は、年間四〇〇〇時間以上であると推定される。

(3) 一郎の睡眠時間の不足

一郎は午前二時以降に退館した回数は、平成三年一月以降八月二三日までの八カ月弱の間に七〇回(月平均8.75回)もあり、これを年間にすると一〇五回となり、三日に一度は午前二時以降に退館していたことになる。また、午前四時以降に退館した回数は、平成三年一月以降八月二三日までの八カ月弱の間に四九回(月平均6.125回)となり、年間にすると73.5回となる。

一郎は、所定始業時刻に間に合うように、午前六時に起床していたから、帰宅に一時間を要し、帰宅後就寝までに三〇分を要するとすると、午前二時に退館した日の睡眠時間は二時間三〇分、三時に退館した日は一時間三〇分、四時に退館した日は三〇分と、ほとんど寝る時間はないことになり、それ以降では、自宅に帰ると寝る時間はまったくなくなるため、シャワーを浴びて着替えて飛び出すか、原告久光の青山の事務所に泊まるしかなかった。そして、右のとおり、午前二時以降に退館した日が月に約九日あるから、睡眠時間が二時間三〇分を上廻らない日が月に九日あり、そのうち午前四時以降に退館してほとんど寝る時間のない日が月に六日あるということになる。

以上のような、著しい長時間労働及び睡眠不足が人間の健康を破壊することは当然であり、このような長時間労働及び睡眠不足が一郎に疲労困態性うつ病を発症させた。

(4) 被告の主張に対する反論

被告は、在館時間即労働時間ではないとするが、被告の社員の間では、深夜、早朝にまで至るサービス残業が常態化していたこと、監理員巡察実施報告書には、一郎が勤務外の行動に出ていたとの記録はないこと、一郎の同僚であった訴外高橋功(以下、「訴外高橋」という。)は、在館中の一郎につき、基本的には仕事をしていると考えていたこと、在館時間よりも勤務状況報告表上の労働時間が著しく短いのは、労働時間の申告を社員が自己規制していたからであること、夏は暑く冬は寒い、深夜の被告会社内に、業務以外の目的で居たわけがないこと等からすれば、一郎の在館時間は労働時間であるというべきである。なお、一郎の業務量は基本的に多く、その中で企画業務は深夜にこそ適しており、リーダーである訴外坂本の適切な助言がなかったこと等が、深夜勤務や長時間残業をもたらした。

(二) 被告の主張

(1) 一郎の労働時間は、同人が自ら作成した勤務状況報告表により明らかであるところ、同表によれば、同人の時間外勤務は突出して多いものではない。

(2) 一郎が、原告主張のように、深夜、ときには早朝まで会社内に在館していたことは認める。しかしながら、右在館時間がすべて被告の業務のために充てられていたとは考えられない。すなわち、一郎には、土曜の夜に出社し、日曜の朝に退館するといった理解しがたい行動パターンがしばしば見られたこと、一郎の担当していた業務の内容及び量からして、一郎が原告主張のような長時間労働をしなければならなかった理由はないこと、一郎は、自席か会議室で寝ている姿を複数の監理員により目撃されていること、一郎はホテルでの宿泊制度や出勤猶予制度を利用しなかったこと等から、一郎の右勤務状態は、同人の性格か、業務外の個人的事情に基づくものであり、在館時間がそのまま勤務時間であるということはできない。個人生活や家庭環境に基づく事情の影響も、否定できないと思われる。

2  一郎の自殺と業務との因果関係

(一) 原告らの主張

(1) 前記の長時間労働による疲労及び長時間労働に起因する過度の睡眠不足が、一郎をして疲労困憊性うつ病に陥らせ、右うつ病のもとで、八ケ岳原村でのイベントの終了が「荷降ろし」状況となって、一郎の自殺を引き起こしたのであるから、一郎の自殺と業務との間には、相当因果関係がある。

(2) 一郎の家庭は温かく、また女性関係にも問題はなかったから、一郎の家庭や女性関係は、一郎の自殺の原因ではない。

(二) 被告の主張

(1) 一郎の在館時間がすべて業務に充てられていたとはいえないこと、自殺する直前に休暇をとって八丈島に出掛けていることから、同人が業務によって過労状態にあったとはいえない。また、同人の疲労が極限に達していたとすれば、被告の経費で宿泊できるホテルを利用したり出勤猶予制度を活用することはもとより、休暇を取ることを考えるのが通常であるところ、一郎はこれらのことをしなかったのであり、それが業務上の強制によるものとは考えられない。

(2) 仮に一郎が業務によって過労状態であったとしても、一郎の死亡は過労によるものではない。すなわち、一郎は、最後の八ケ岳出張についても、一日目の仕事は午後五時にはすべて終了し、翌朝は午前六時三〇分に起床して午前八時ころまでテニスをし、その後イベントの芋堀りに参加したりしているが、夕刻には殆ど仕事を終えており、その後、自車を運転して自宅に帰っているが、帰宅したのが午前六時ころだとしても、その間に十数時間の空白があり、その間に自殺の直接の原因が存在したと考えるのが当然であり、過労が自殺の原因であったとは考えられない。

3  被告の過失の有無

(一) 原告らの主張

被告は、雇用主として、社員である一郎の労働時間、労働状況を掌握しかつ管理し、過剰な長時間労働によりその健康が侵害されないよう配慮すべき義務を負っていたにもかかわらず、右義務を怠った過失がある。すなわち、被告は、社員の長時間労働、とくに深夜勤務が常態となっていたこと、社員の長時間労働が社員の健康を損なうおそれがあることを知っており、また、監理員巡察実施報告書、休日出社名簿等により、一郎の異常な長時間労働を知り、又は知り得たにもかかわらず、同人の長時間労働を軽減させるための措置を取らなかったのであるから、同人に対し、民法四一五条に基づく債務不履行責任、又は、同法七〇九条に基づく不法行為責任を負う。

また、一郎の直属の上司であった訴外坂本は、一郎の異常な長時間労働を知り、又は知り得る状況にあり、特に、平成三年六月以降は、一郎が、長時間労働により心身共に優れない状況にあることを知り、又は知り得たにもかかわらず、何らの措置を取らなかった過失があるから、一郎に対して、民法七〇九条に基づく不法行為責任を負うものであり、訴外坂本の使用者である被告は、一郎に対し、同法七一五条に基づく使用者責任を負う。

(二) 被告の主張

被告が、雇用主として、社員に対して原告主張の義務を負うことは認める。しかしながら、被告は、以下のとおり、右義務を尽くしていた。すなわち、被告は、健康管理センターを設置して社員の健康管理に十分配慮し、社員の退社が深夜に及ぶことが少なくないため、被告の経費で社員がホテルに泊まることができるようにして、社員の肉体的負担の軽減を図り、深夜まで勤務した社員には出勤猶予制度を設け、無制限のタクシー乗車券を支給し、時間外労働の特に多い社員には、ミニドックでの特別な健康診断を行うことを義務付け、社員の自己申告による勤務状況報告表により、社員の労働時間の実態の把握に努め、社員の労働時間の改善について被告の労働組合と協議し、常時労使一体となって、社員の労働時間の改善に努力していた。

4  原告ら主張の損害

(一) 逸失利益

(1) 年収分 一億六一六六万円

(2) 退職金、企業年金分

一〇七一万円

(二) 慰謝料 三〇〇〇万円

(三) 弁護士費用

二〇二三万七〇〇〇円

第三  争点に対する判断

一  前記争いのない事実、証拠(甲一、三ないし一一、一三ないし三八(枝番を含む)、乙一ないし三五(枝番を含む)、三七ないし四〇、証人坂本康治、同高橋功、同金子嗣郎、同金森康雄、原告ら本人)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。

1  一郎の身上、経歴等

(一) 一郎の生い立ち、性格

一郎は、父を原告久光、母を原告洋子として、昭和四一年一一月三〇日に出生し、幼少のころ、気管支炎を患うなどしたほかは、いたって健康であった。一郎には姉三人と弟一人がいるが、すべて健在であり、血縁関係に精神病者、自殺者はいない。

一郎はスポーツが得意であり、中学校時代にマラソンで一位となり、高校時代はテニス部の部長を勤め、アメリカンフットボールやスキー等も嗜むほか、テレビドラマにも準主役で出演する等、幅広い活動を行ってきた。そして、明治学院大学法学部に入学後は、日中は同大学に通うほか、夜間はアントレプレナーカレッジ(実業家大学)に通い、外部の研究会や学会にも入り、ACE(Association of Collegiate Entrepreneurs)が平成元年二月にサンフランシスコで開催した国際会議では、神奈川地区の学生代表として出席した。

一郎は、明朗快活で、素直であり、優しく、責任感があり、礼儀正しい性格であった。また、粘り強く、完璧主義で、手抜きをせずに、真面目にとことんやるといった性格もあった。身だしなみは清潔かつイキで洒落っ気があり、どんなに疲れて帰ってきても、洋服はきちんとハンガーに掛けてから寝るという几帳面な性格であった。

(二) 一郎の家庭環境、交友関係等

原告久光は、昭和四五年に外務省を退官して商社に勤めた後、昭和五三年に退職し、翌五四年に国際プロジェクトコンサルタンツ株式会社を設立して以後その代表取締役の職にある。原告洋子は、二二年にわたり、無添加食品や健康指向の食品を扱う株式会社シュガーレディーに勤務していたが、毎日勤務していたわけではなく、勤務時間は午前一〇時三〇分から午後二時くらいまでの間であり、勤務場所も自宅や近所の家等であり、仕事の内容は、会社の製品を自ら調理して、主婦らに対する自社製品の普及に努めるというものであった。原告らの家庭においては、一郎が子供のころから、その友達が集まり、原告洋子が手作りの料理でもてなすことがよくあった。

一郎は、明るく優しい性格であったため、友人も多かった。一郎は、大学四年生のころ、当時聖心女子大学の学生であった、訴外甲野春子(以下、「訴外甲野」という。)と知り合い、以後交際を続けていた。

大学三年生のとき、東京都町田市にある原告らの自宅が建て替えられたが、その際、設計、室内装飾等を決めるに当たっては一郎も参加し、自室は自らの好みで作られた。べッド、電話機、音響機器等は、一郎が選んだものが備えつけられた。一郎の部屋は、東南の角にあり、東と南に大きな窓があるため日当りのよい明るい部屋だった。

2  被告への入社

一郎は、大学卒業後の進路として、広告業界への就職を希望するようになり、平成二年三月、明治学院大学法学部を卒業し、同年四月一日付けで被告に入社した。一郎は、同期入社一七九名の一員として二カ月間の新入社員集合研修を受け、同年六月一日付けで、同期三名とともにラジオ局に配属され、同局内研修を経て、同月一七日付けで、同局ラジオ推進部に配属された。一郎の職場は、東京都内の築地の本社ビルの中にあった。右当時の同部長は訴外滝口であり、同部には一三名の社員が所属していた。

3  被告における社員の労働時間、管理体制等

(一) 社員の労働時間等

被告における社員の労働時間は、原則として、その始期が午前九時三〇分、その終期は午後五時三〇分、そのうち午後〇時から午後一時までは休憩時間とされていた。午後一〇時から午前五時の間に勤務した者については、出勤の猶予及び退勤の繰上げの制度があった。一二月三〇日、同月三一日、一月二日、同月三日、土曜日、日曜日及び祝日は休日とされていた。昭和五四年に、被告とその労働組合の間で、労働基準法三六条に基づいて締結された三六協定(以下「三六協定」という。)によると、部署ごとに所定労働時間以外の月間の残業時間の上限が定められていた。また、同協定は、一日当たりの残業時間も定めており、男子については6.5時間、女子については4.5時間としていたから、同協定による限り、残業し得る時間は、通常、男子につき午前〇時まで、女子につき午後一〇時までであった。

(二) 社員の労働時間の管理体制等

社員の労働時間の管理については、被告は、各社員が、自ら勤務時間報告表に残業時間を記載するという、自己申告制をとっていた。社員は、残業するときは、自ら勤務時間報告表に、午後五時三〇分から午後一〇時までの普通時間における残業時間と、午後一〇時以降翌日の午前五時までの深夜における残業時間とに分けて記載したうえ、原則として予め所属長の許可を得ることとなっていたが、業務の性格から、突発的に時間外の業務がしばしば生じ、現実には残業が先行し、残業が終わった時点で、各社員が残業に要したと考えた時間を右表に記載し、翌日事後的に所属長からその承認を得るという運用となっていた。勤務状況報告表は、月ごとに人事局に提出された。

社員が休日に出勤する場合には、社員は事前に予定業務を記載して休日出勤を申請したうえで、事後にその労働時間を記載した書類を提出し、部長の承認を求めることとなっていた。

社員の労働時間が三六協定で定められた上限を超過した場合には、その所属の部長が顛末書を作成し、人事局長又は総務局(室)長へ提出することとなっており、また、残業時間が月間九〇時間を超えた社員は、上司から理由を聞かれることとなっていた。

(三) 社員の勤務状況等

毎月一回定期的に、会社と労働組合の幹部が出席して社員の勤務状況等について話し合う三六協議会では、社員の時間外の勤務実態のデータが提出され、三六協定で定めた上限時間を超えた場合に所属部長が出す顛末書の内容の検討がされ、二カ月間一〇〇時間を超える残業を行っている者の上司が呼ばれ、その理由及び改善策等が話し合われるなどして、社員の労働条件を改善すべく努力がされてきていた。しか.し、被告の労働組合の調査によれば、平成三年度の三六協定時間超過者(平日+休日)は、東京本社だけでも月平均三三〇名に達していたほか、平成四年一月二〇日深夜二四時の時点で、東京本社各ビル合計で一二四名の深夜残業者が確認された。また、被告の労働組合が、同年一月末から二月中旬にかけて、東京本社及び大阪支社において実施した調査では、午後一〇時以降の深夜残業が最も多い月で、男子の平均深夜残業日数は10.85日、女子の場合は、平均5.35日、男子社員平均で12.39であり、また、自らの労働時間をありのままに勤務状況報告表に記載した社員は、男子が41.2パーセント、女子が25.7パーセントにとどまり、それ以外の者は、午後一二時又は午後一〇時まで記入したうえ、残りは他の日に繰り越すか、まったく申告しないというものであった。

(四) 社員の入退館の管理体制

被告は、築地の本社ビルの防災及び防犯等の安全管理を、訴外関東財務管理株式会社に委託し、同会社は監理員を派遣していた。監理員は、二四時間の勤務体制をとり、本社ビルの玄関、及び同通用口が開いている平日の午前六時三〇分から翌日の午前二時までは、通用口及び監理員室にて勤務し、深夜午前二時から午前六時三〇分までは、二名が常時、監理員室に待機していた。

玄関及び通用口が開いている平日の午前六時三〇分から翌日の午前二時までは、社員は自由に出入りすることができた。深夜午前二時から午前六時三〇分までは、右玄関及び通用口は閉められているため、その間に退社する社員は、社内電話により監理員に通用口の開扉を依頼し、通用口近くに備付けの退社時刻記録一覧表に、所属局、資格、氏名、社員番号、退社時刻を記入したうえ、退館していた。監理員は、午後六時以降翌日の午前七時までの間、一時間ごとに社内各フロアを巡察し、右巡察の結果を監理員巡察実施報告書に記載し、また、右報告書に、退社時刻記録一覧表の記載を転記していた。

休日については、社員は、通用口に備付けの休日出社名簿に、出社時には、所属局、氏名、出社時刻を記入し、退社時には、退社時刻を記入することになっていた。

監理員巡察実施報告書及び休日出社名簿は、防災及び防犯等の安全管理のために、総務局に提出されていたが、社員の労働時間の管理のための資料として人事局に提出されることはなかった。

(五) 社員に対する健康管理対策

被告においては、社員に対し、採用内定時である入社前年の八月ころ及び入社直前の二月ころに、法律で定められた検査項目につき、被告東京本社内にある健康管理センターにて健康診断を行っていた。右健康管理センターには、医師が二二名おり、その専門は、内科、外科、眼科、整形外科、歯科、耳鼻科であり、看護婦が一〇名、薬剤師が二名、技師が三名勤務し、医師は常時三名から六名、看護婦は常時一〇名が詰めていた。精神科については、東京では訴外浜田クリニックと提携しており、被告社員は同クリニックで診察を受けることができるようになっていた。

一郎の、右内定時及び入社二カ月前時の健康診断の記録には、同人に色覚異常が認められたため、職域限定という判断がされており、Bという判定がされていたが、右判定は、内臓等に疾患があるということではなかった。その後は、入社した年の秋に健康診断がされており、一郎についての健康診断の内容は、右と同様であった。

月間の時間外労働時間が三カ月連続して八〇時間を超えた社員に対しては、ミニドックと称して、尿検査、心電図、血液検査等が実施されていた。そして、六カ月以内に同様な状況になった社員は、被告の費用で、日帰りの人間ドックへ行かせていた。

被告は、東京本社から徒歩で二、三分のところにあるホテルと契約し、業務が午後〇時以降に終了する場合で、翌朝始業時刻に出社する東京本社の社員の宿泊施設として、常時五室を確保し(平成三年九月当時は、平日五室、休日二室)、社員がそこに会社の経費で宿泊できるようにしていた。

4  一郎の業務等

(一) ラジオ局ラジオ推進部における業務

ラジオ推進部の業務は、広告主であるスポンサーに対する、ラジオのタイムセールス、すなわち、ラジオ番組を放送する時間枠のセールス、イベント等の企画立案及び実施等であった。その際、ラジオ推進部員は、スポンサーに対する窓口となる営業局員、放送局、時には製作プロダクション等と共同して、作業を行っていた。

(二) 一郎の業務

一郎も、ラジオ推進部員として右業務を担当していた。ラジオ推進部には中堅社員をリーダーとする二つの班があり、一郎は、訴外坂本をリーダーとする班に所属していた。右班は、営業局として九つの局を担当していたが、一郎は、訴外坂本他二名とともに、そのうち築地第七営業局と入船第八営業局を担当した。一郎は、平成二年一二月までは、訴外坂本と概ね一緒に行動したが、平成三年以降は、七割程度は単独で仕事をするようになった。

一郎は、平成二年七月から平成三年八月までの間に、少なくとも、日本ビクター、味の素、安田生命等各種の業界から少なくとも四〇社を、スポンサーとして担当し、常時、数社のスポンサーを相手に、スポンサーごとに異なる内容の業務を、同時並行的に行っていた。

(三) 新入社員としての業務

右の本来的な業務のほか、一郎は、新入社員として、午前九時までに出社して机の雑巾掛けをすること、ホワイトボードの書換えをすること、コピー機等のスイッチを入れたり切ったりすること、すぐに電話を取ること、出前を取ること、部費、局費を集めること、ラジカセ等の部品管理をすること、ゴルフ・コンペの賞品を手配すること、一時間に一回はファックスが来ていないかどうか確認して、来ていれば配ること等の作業をすることを求められていた。

5  一郎の職場環境、業務に対する態度等

(一) 一郎の職場環境等

一郎の職場における、一日の通常のタイムテーブルは、始業時刻ころに、放送局、営業局、スポンサー等から電話のラッシュを受け、その後は、自ら放送局やスポンサーへ行ったり、営業局員と打合せをしたり、会議をしたりし、夕方、スポンサーのところへ行っていた営業局員が被告会社に帰ってくるころ、再び電話のラッシュを受け、それが終わる午後七時ころ夕食を取り、その後ようやく落ちついて企画の立案、資料作り等ができる状況になるというものであった。

一郎は、酒を嗜まない方であったが、スポンサーとなる会社や、営業局との間で酒の席が設けられることも多く、また、一月に一度は、班の飲み会があり、酒を無理強いされて醜態を演じたこともあった。また、酒の席で、訴外坂本から靴の中にビールを注がれて飲むように求められ、これに応じて飲んだことや、同人から靴の踵部分で叩かれたことがあった。平成二年一〇月ころの時点では、ラジオ局員の中には、他の部署に移りたいと希望する者が多かった。

(二) 一郎の業務に対する態度等

一郎は、自分の業務に対して、非常に意欲的であり、積極的に仕事をし、早い時期から職場の雰囲気に慣れていった。同人は、上司や担当営業局員、スポンサーからも可愛がられていた。

平成二年八月二〇日付けの、訴外滝口から一郎に対してなされたアドバイスの中には、一郎が、常に積極的に真剣な態度で職務に取り組んでいる姿勢が、新人らしく好感が持てること、一郎の粘り強い性格が、ラジオ推進部の業務を遂行するために大変重要な要素であり、既に実績が上がりはじめていること等が記載され、また、今後必要なこととして、直属の班長だけでなく、他の班長、他の部の班長や部長にも自分をアピールすること、一定の時間内に仕事を上げることが重要であり、時には巧遅より拙速が必要であると指摘されている。また、同じ頃に、先輩社員から一郎に対してなされたアドバイスの中にも、右と類似する点が指摘されている。

一郎が、被告に入社して六カ月を経た平成二年秋ころに、被告に対して提出した「私の仕事」と題する申告書には、業務上苦心する点として営業局とのコミュニケーションが、業務上苦労する点として営業局員やスポンサーのわがままやトラブル処理が、充実感を感じるときとして自分が企画した案が実施の運びとなり、それが成功し、スポンサーが喜んでくれたときや、上司に褒められたときが、業務上の欠点として情報分析能力が不足していることが、業務上の不満として担当スポンサーが多く、慢性的に残業が深夜まであること、参考資料が少なく、データに基づいたプロモートができないことが、それぞれ記載され、さらに、総じて被告若しくはその業務に対する感想として、大きな仕事も小さな仕事も面白く、思っていた以上に仕事を任せてもらえる旨が記載されている。

一郎は、ラジオ局ラジオ推進部に配属された当初の平成二年ころには、仕事の段取り、進め方が計画通りにいかず、時間配分について、よく訴外坂本の助言を求めることがあったが、平成三年ころになると、訴外坂本へアドバイスを求める内容が、担当している営業局員とのコミュニケーションの取り方、企画書の書き方等へと変わっていった。

平成三年六月に入っても、ラジオ局ラジオ推進部に新入社員は配属されなかった。

6  一郎の勤務状況等

(一) 一郎に適用される三六協定上の上限時間等

一郎の場合は、平成二年六月から八月までの三六協定上の月間の上限時間は六〇時間、同年九月から一一月までが八〇時間、同年一二月から平成三年二月までが六〇時間、同年三月及び四月が八〇時間、同年五月が六〇時間、同年六月が八〇時間、同年七月が六〇時間、同年八月が八〇時間とされていた。また、一郎の一日当たりの三六協定上の残業時間は、前記のとおり、6.5時間であり、したがって、通常は、午前〇時までということになる。一郎の、入社後死亡にいたるまでの取得可能な年次有給休暇数は、一五日であった。

(二) 一郎の平成二年度の勤務時間等

一郎の勤務状況報告表によれば、同人の平日の時間外勤務時間及び休日勤務時間は、同年六月は九二時間、同年七月は、一日のうち午後五時三〇分から午後一〇時までの間(以下「普通時間」という。)に七二時間、午後一〇時から午前五時までの間(以下「深夜」という。)に一五時間の合計八七時間、同年八月は、普通時間内に六五時間三〇分、深夜に一二時間三〇分の合計七八時間、同年九月は、普通時間内に五二時間三〇分、深夜に一〇時間の合計六二時間三〇分、同年一〇月は、普通時間内に五一時間三〇分、深夜に六時間、休日勤務が一三時間の合計七〇時間三〇分、同年一一月は、普通時間内に五六時間三〇分、深夜に一〇時間の合計六六時間三〇分、同年一二月は、普通時間内に五〇時間、深夜に一二時間三〇分の合計六二時間三〇分、平成三年一月は、普通時間内に四七時間、深夜が一二時間、休日勤務が六時間の合計六五時間、同年二月は、普通時間内に五六時間、深夜に二〇時間三〇分、休日勤務が八時間三〇分の合計八五時間、同年三月は、普通時間内に四六時間、深夜に八時間の合計五四時間と記載されている。そうすると、右平成二年七月から平成三年三月までの九カ月間の平日の時間外勤務時間及び休日勤務時間の合計は、平日は、695.5時間、休日に27.5時間の合計七二三時間である。

他方、監理員巡察実施報告書によれば、一郎が、休日も含め、深夜午前二時以降に退館した社員として同報告書に記載されているのは、平成二年六月に一回、同年七月に四回、同年八月に五回、同年九月に二回、同年一〇月に三回、同年一一月に五回、同年一二月に六回、平成三年一月に一〇回(そのうち、監理員の巡察や、社員の退館時刻等が記載された「時間」欄に、徹夜と記載されているのは二回)、同年二月は八回(そのうち徹夜と記載されているのは四回)、同年三月は七回(そのうち徹夜と記載されているのは二回)である。また、休日出社名簿については、平成三年一月一日から同年四月二九日までの分だけが提出されているところ、これによると、一郎が休日に出社している日数は、平成三年一月に一日、同年二月に一日、同年三月に三日、四月に二日である。

一郎が取得した平成二年度の休暇は、0.5日である。

(三) 一郎の平成三年の勤務時間等

一郎の勤務状況報告表によれば、同人の平日の時間外勤務時間は、同年四月は、普通時間内に五三時間三〇分、深夜に八時間の合計六一時間三〇分、同年五月は、普通時間内に四八時間、深夜に一時間、休日勤務が七時間の合計五六時間、同年六月は、普通時間内に四三時間三〇分、深夜に三時間、休日勤務が一一時間の合計五七時間三〇分、同年七月は、普通時間内に六〇時間、深夜に四時間、休日勤務が九時間の合計七三時間、同年八月は、同月二二日までの段階で普通時間内に四〇時間、深夜に四時間三〇分、休日勤務が三時間三〇分の合計四八時間とされている。そうすると、右平成三年四月から同年八月までの五カ月間の平日の時間外勤務時間及び休日勤務時間は、平日は、265.5時間、休日に30.5時間の合計二九六時間となる。

他方で、監理員巡察実施報告書によれば、一郎が、休日も含め、深夜午前二時以降に退館した社員として、同報告書に記載されているのは、平成三年四月は六回(そのうち徹夜と記載されているのは一回)、同年五月は五回(そのうち徹夜と記載されているのは一回)、同年六月は八回(そのうち徹夜と記載されているのは一回)、同年七月は一二回(そのうち徹夜と記載されているのは八回)、同年八月は、一郎が死亡する二六日までの間に一〇回(そのうち徹夜と記載されているのは六回)である。

(四) 一郎の残業は、平成二年度中から、訴外坂本よりも長時間にわたっており、平成三年に入ってからは、一層増加した。平成三年三月ころ、訴外坂本は、訴外滝口から、一郎が被告会社内で徹夜している旨を聞き、一郎に対し、家に帰ってきちんと寝て、仕事が終わらないのであれば翌朝早く出勤して仕事をするようにと指導した。一郎は、原告らに対しては、残業時間は全部書いてはいけないと言われていると話していた。

7  一郎と同期の社員の勤務状況等

一郎と同様に、平成二年四月に被告に入社した訴外高橋は、同年六月、ラジオ局スポット推進部に配属となり、営業局としては五ないし六部署を、スポンサーとしては三〇社前後を担当し、非常に忙しい毎日であった。同人の時間外勤務時間は、毎月平均して八〇から九〇時間に昇り、平均して、毎日残業は午前一時や二時に及び、緊急の仕事を仕上げるため、朝まで被告社内に残ることもあり、朝まで社内に残る場合には、食事をとったり、気晴しに雑談したり雑誌を読んだり、応接セットのソファーや会議室で仮眠をとったりすることがあったが、仕事もないのに朝まで社内にいたり、休日出勤するようなことはなかった。

一郎と訴外高橋は、夜遅くまで残業することが多かったが、双方とも睡眠時間を結構必要とする体質であったため、遅くまで残業する際には社内で仮眠を取ることがあり、その場合は、お互いに起こし合うようにしていた。同人らは、何度も相互に、「帰ろうよ、体こわすぜ」等と声を掛け合い、午前二時ころ帰るときには、残っている方に声を掛ける等していた。平成三年に入ると、訴外高橋が退社するときになお一郎は残業しているということが多くなった。訴外高橋が、社内で所定の勤務時間外に一郎の姿を見るとき、同人は電話をしていたり仮眠を取っていたときもあったものの、基本的には仕事をしていた。訴外高橋や一郎等の新入社員は、比較的彼らよりも年次の高い営業局員から、コピー等を指示されることもたまにはあった。月曜日から仕事が非常に忙しくなることが容易に予想できる場合や、翌週までに処理しなければならない仕事もあるが、休日にプライベートな予定も入っているという場合等には、休日の日中は私的に過ごしたうえ、その夜から出勤して仕事をし、翌朝退社するということもあった。

訴外高橋は、時間外労働時間が九〇時間を超えると、上司からどういう作業をしているのか質問されるため、上司に説明しきれない自信のない作業については、これを除外するほか、食事や仮眠、雑談等に費やした時間を除外したうえ、勤務状況報告表に労働時間を記入していた。訴外高橋は、上司から、業務を効率的にせよという指導は何度も受けていたが、勤務状況報告表に記載する残業時間を抑えるようにとの指導は受けたことはなかった。訴外高橋は、業務が忙しかったため、有給休暇はとりにくい傾向にあった。訴外高橋は、相当数休日出勤をしていたが、休日出勤は、本来事前に予定業務を記載して申請したうえで、事後に業務時間を記載した書類を提出し、部長の印を求めなければならない等、手続きが面倒であったため、休日出勤をしても休日出勤をした旨申請しないことが多かった。就業規則上は、午後一〇時から午前五時の間に勤務すれば、出勤の猶予及び退勤の繰上げが認められたが、始業時刻から、営業局、放送局、得意先等から電話が架かってくるため、訴外高橋はなるべく始業時刻に出勤するようにしていた。訴外高橋は、会社から自転車で七、八分の距離にマンションを借りていたが、平成二年から三年にかけての平日における平均睡眠時間は、社内で仮眠する時間を除いて四、五時間程度であった。

平成三年七月中旬、訴外高橋は、ラジオ推進部に異動となり、一郎と同じ部署で仕事をするようになった。訴外高橋は、一郎から、プライベートな問題についての相談や悩みを聞いたことはなかった。

8  一郎の入社後の生活状況

(一) 一郎の帰宅状況等

一郎は、ラジオ局ラジオ推進部に配属された平成二年六月からしばらくの間は、終電車やタクシーで、同日中に帰宅していた。同人は、同年八月ころから、翌日の午前一時や二時ころに帰る日が多くなったが、まだ元気で、気力が張った様子であった。同年一一月末ころになると、それ以前は、いかに帰宅が遅くなっても、翌日の早朝四時か五時ころには帰宅していたのに、帰宅しない日があるようになった。平成三年になると、一郎の帰宅時間は、同様の状況が続き、次第に一層遅くなっていった。

原告らは、平成二年一一月末ころから、一郎が過労のために健康を害するのではないかと心配するようになり、友人にも相談したりしたが、就職後の最初の一年間は下積みで苦労も多く大変であろうが、二年目からは一郎の下に新入社員が入るから、一郎も多少楽になるのではないかと思っていた。また、原告らは、できるだけ一郎の自主性に委ね、一郎から相談があればそれに応じようと考えており、一郎に対し、仕事を辞めろとは言わなかった。原告久光は、平成二年一一月以降のある日曜日、一郎に対し、休暇を取ったらどうかと勧めたが、一郎は、自分が休んでしまうと代わりの者がいない、かえって後で自分が苦しむことになる、休暇を取りたい旨上司に言ったことがあるが、上司からは仕事は大丈夫なのかと言われており、取りにくいと答えた。

平成三年七月、八月ころになると、一郎は帰宅しない日が多くなり、翌日の早朝に帰宅しても、原告久光が出勤する前に出勤するなど、原告久光が一郎に会う時間はほとんどないような状況になった。一郎の帰宅時間は、夜というよりも、朝という状況が続き、午前六時三〇分とか午前七時ころに、ズボン、背広もワイシャツもよれよれの状態で、やつれたような疲れた顔で帰宅する日が続いた。

(二) 一郎の出勤状況等

一郎は、右のように深夜ないし早朝に帰宅しても、始業時刻に間に合うように、午前七時四五分から午前八時の間には自宅を出るようにしていた。そのため、午前六時に起床しようとして、目覚まし時計三台を午前六時に鳴りだすようセットしたうえ、同時にステレオが鳴りだすようにもしていた。また、一郎は、原告らに対し、「絶対に起こしてくれ、どんなことがあっても起こしてくれ、遅刻するとまずいから。」等と言っていたため、原告らも、一郎を起床させようと、夏期であれば冷たいタオルを持っていって顔を拭いたり、体を揺り動かすなどしていた。午前六時三〇分とか、七時ころ等、帰宅しても寝る時間がないような場合には、シャワーを浴びて、服を着替えて、こざっぱりとして、再び定刻に家を出て出社した。原告洋子は、できるだけ一郎の体の負担を軽くしてやろうと、徒歩で四、五分のところにある駅までも、毎朝車で一郎を送っていた。また、原告洋子は、朝食には、卵、サラダ、フルーツ、コーンフレーク、ミルク等のほか、果物と野菜の栄養素が入っているとされる青汁や栄養剤のアンプルを用意したりして、一郎の健康に心を配っていた。

9  一郎の入社後の精神状況等

一郎は、前記のとおり、入社した平成二年当時は明るく積極的であったが、平成三年春から初夏にかけての午前二時ころ、訴外高橋功が帰ろうとして一郎を探したところ、一郎は雑誌局の真っ暗なフロアで目を開けたままぼんやり横になっており、訴外高橋が何か悩みがあるのかと尋ねたところ、まあなというような返事が帰ってきたことがあった。

同年七月ころから、一郎は、元気がなく、暗い感じで、うつうつとして、顔色が悪くなり、目の焦点も定まっていないことがあるようになった。訴外高橋は、一郎の顔色が悪いことと目の焦点が定まっていないように見えることがあったことから、一郎の様子がおかしいと気づいた。訴外高橋は、一郎から、プライベートな問題での悩みを聞いたことがなかったため、仕事で追い詰められているのかと思った。訴外坂本も、そのころ、従来服装もきちっとしていた一郎が、ネクタイを緩めた状態でいるようになり、また、顔色が悪くなったため、一郎の健康状態が悪いのではないかと気が付いた。一郎は、訴外坂本に対し、自分がたまに何をしているかわからないとか、どうしていいかわからない、七月ころから二時間くらいしか寝れない、寝ても二時間くらいで目が覚めてしまう、八月に入ってそれが一層ひどくなった、その原因はわからない旨話すようになった。一郎は、帰宅時は、汗ばみ、疲れ切って、眼が飛び出しそうな感じであった。同年七月七日、一郎は、訴外甲野に対し、「最近自分に自信がない、落ち込んでいてね、仕事も壁にぶち当たった感じだしね、春子のこともね、何かこう変なんだ。」と話した。同年八月になると、一郎はますます元気がなくなった。

同年七月ころから、原告らも体調が悪くなり、夜寝ようとしても、一、二時間ですぐ目が覚めるようになった。原告らは、一郎の健康が心配であり、いつも話題は一郎の健康状態のことばかりであったが、一郎が成人した社会人であって、一郎本人は何ら仕事の辛さ等を原告らに訴えなかったため、原告らが一郎のためにしてやれることをできるだけしていた。

10  一郎の平成三年八月の行動

(一) 同月一日から二二日まで

(1) 同月一日(木)

前日の七月三一日から引き続き被告社内に在館し、八月一日午前六時三〇分ころ退館し、午前七時ころから原告久光の青山の事務所で仮眠を取ったのち、午前八時三〇分ころ同事務所から出勤した。

(2) 同月二日(金)

前日の一日から引き続き被告社内に在館した後、二日午前六時ころ退館し、午前六時三〇分過ぎころ帰宅し、スーツのまま仮眠を取り、午前七時三〇分ころ起床し、午前八時すぎの電車で出勤した。一郎は喉の調子が悪いこと、コンタクトレンズが合わないこと等を原告らに対して訴えていたが、同日、虎の門病院に行き、耳鼻咽喉科で、喉や口の中が具合が悪く、せきが出る、荒れた感じがする、喉が腫れていると訴え、診察を受けた。

(3) 同月三日(土)から同月五日(月)まで

二日から引き続き午前四時二〇分まで被告社内に在館した後、三日午前五時ころ帰宅した。午前六時過ぎころ、自宅を出て、友人と八丈島で休日を過ごすため、羽田発午前八時五五分の飛行機で八丈島に行った。ダイビングをしようとしたが、耳抜きがうまくいかずにダイビングを中止したということがあった。同月五日、八丈島発午前一一時五分の飛行機で東京に戻り、夕方帰宅した。五日については、有給休暇を取得した。

(4) 同月六日(火)

午前七時五〇分ころ自宅から出勤し、同日は社内で徹夜した。

(5) 同月七日(水)

前日の六日から引き続き午前六時三〇分まで在館した後、退社して、原告久光の青山の事務所で仮眠を取り、同事務所から出社した。

(6) 同月八日(木)

この日は帰宅することなく被告社内に在館した。

(7) 同月九日(金)

前日の八日から引き続き社内に在館し、九日の夜は、青山の事務所に泊まった。

(8) 同月一〇日(土)

午前八時ころ帰宅し、昼過ぎまで寝た後、午後四時ころ友人に会うため家を出た。その後出社し、翌一一日の午前〇時二五分、退館した。

(9) 同月一一日(日)

午前一時三〇分ころ会社から帰宅した。午前七時に家を出て、午前九時から始まるイベントに立ち会った後、出勤して翌一二日の午前二時三〇分まで被告社内に在館した。

(10) 同月一二日(月)

午前三時過ぎに会社から帰宅し、午前七時四〇分ころ出勤し、この日は帰宅せず被告社内で徹夜した。

(11) 同月一三日(火)

前日の一二日から引き続き社内に在館し、一三日午前六時三〇分に退社し、午前七時過ぎにタクシーで帰宅し、午前八時ころ出勤して、その晩は帰宅しなかった。

(12) 同月一四日(水)

終日帰宅せず、社内で徹夜した。

(13) 同月一五日(木)

前日の一四日から引き続き社内に在館し、一五日午前六時三〇分に退社して午前七時過ぎに帰宅し、午前八時ころ出勤し、終夜帰宅しなかった。

(14) 同月一六日(金)

帰宅しなかった。

(15) 同月一七日(土)

帰宅せずに社内で徹夜した。

(16) 同月一八日(日)

前日の一七日から引き続き社内に在館し、一八日午前六時三〇分ころ退社し、午前七時過ぎころ帰宅した。顔面に赤い斑点が出ていた。

(17) 同月一九日(月)

午前七時五〇分ころ出勤した。訴外坂本は、一郎がコピーを取るのに時間がかかりすぎていることに気づいた。一郎は、訴外甲野に対し、電話で、「最近おかしくて、自分で自分が何をしているのかわからない、ノイローゼ気味なんだ。」と話した。同日は帰宅しなかった。

(18) 同月二〇日(火)

帰宅せず、社内で徹夜した。

(19) 同月二一日(水)

前日二〇日から引き続き社内に在館し、二一日午前六時三〇分ころ退社し、帰宅する時間がないので、原告久光の青山の事務所でYシャツを着替えて出勤した。一郎は、訴外甲野に対し、木曜日に会えないかと言うも、時間のやりくりがつかなかった。「ノイローゼ気味だ、会社を辞めたい、君と会う時間もない、自分を成長させる時間もない。」等と言っていた。この日も社内で徹夜した。

(20) 同月二二日(木)

前日二一日から引き続き社内に在館し、午前七時ころ帰宅。

(二) 平成三年八月二四日から同月二六日まで、一郎は、長野県八ケ岳中央高原原村に、TBSラジオ主催、味の素株式会社後援の「森山良子のハートオブポップス」番組附帯リスナー招待イベント「サマーホリデイ・イン・ベジタブルランド原村」を実施するため、出張することとなっていた。一郎は、平成二年の夏にも、原村での同様のイベントのため出張していたが、右イベントが大嫌いであった。一郎は、右出張先では、ペンション係、おみやげセット係、コンサート入場整理係、テニススクール係、コスモトーク係を担当したが、ジュースを冷やしたり、自車で買い出しに行ったりする等、招待客を楽しませるための雑用係もしていた。訴外坂本は、休暇を兼ねて、それに先立つ同月二二日から、原村近くの同人の妻の別荘に行っていた。

(1) 同月二三日(金)

一郎は、前日すでに別荘に出発した訴外坂本から預かっていた、同人の出張申請書及び自己の出張申請書を提出したところ、当時ラジオ局長であった訴外加藤及び次長であった訴外川上に呼ばれ、訴外加藤から、二人で行く必要はないと言われ、訴外坂本の出張の理由を聞かれたが、これを説明することができなかった。そこで一郎は、会社から既に別荘にいる訴外坂本に対し、同人の出張の理由を説明しきれないから、同人から訴外川上次長に電話するように求めた。訴外坂本は、自ら上司に連絡した後、同日の昼過ぎころ、一郎に電話をし、この件は終わったからと伝えたところ、一郎は、訴外坂本のために自分は何もしてあげられない、今自分で何をしているのかわからない等と言い、非常に元気のない様子だった。そこで、訴外坂本も心配になり、夕方仕事が終わったら、話も聞きたいから自分の別荘へ来ないかと誘ったところ、一郎はこれを承諾した。同日、一郎はエレベーター内で親しくしていた友人に会ったが、会うといつも「ヤッ」などと言っていたにもかかわらず、このときは何も言わなかった。

一郎は、同日の仕事が終わった後、自車で訴外坂本の別荘へ向かった。一郎が、訴外坂本が教えたとおりに途中まで来たため、訴外坂本は一郎を車で迎えに行った。昼過ぎころの電話では、一郎は午後九時ころまでには訴外坂本の別荘に行けるということであったが、実際に到着したのは夜中の一二時ころであった。車二台で坂本宅に向かう途中、一郎は蛇行運転をしたり、パッシングをしたり、離れたりくっついたりした。一郎のパッシングに気づいて坂本が車を止め、一郎にどうしたんだと聞いたところ、一郎は、「いや坂本さん、ちょっとほんと変なんですよ。」と言った。坂本宅に到着した後、一郎がまだ夕食を食べていなかったため、訴外坂本は一郎にカレーライスを食べさせたところ、大分落ちついた様子でいつもの調子に戻った様子であった。坂本の妻が一郎の顔色が悪いため、「大丈夫なの。」と尋ねたところ、「僕、霊にとりつかれちゃったみたいなんですよね。」と答えた。訴外坂本が「馬鹿なこといってんじゃないよ、仕事がつらいのか。」と言ったところ、「いや、それも分からない」とか「もう人間として駄目かもしれないんです。」「自分で今、何をしているのかよくわからない。」「自分で仕事をどうやって組み立ててやっていいかわからない。」等と答えた。また一郎は、坂本に対し、七月ころから、寝ても二時間くらいで目が覚めるようになり、八月に入ってそれがいっそうひどくなったこと、久しぶりに温かいご飯を食べたこと、このように温かいご飯を食べられるような家庭を早く作りたい等と話した。

(2) 同月二四日(土)

一郎は、午前九時に起床し、朝食をとった後、訴外坂本とともに午前一〇時三〇分ころ原村に到着し、イベントの準備がどういうふうに進んでいるかをチェックした。午後五時ころそのチェックが終了し、一郎は訴外坂本とともに、原村にあるペンションに行き、訴外坂本のほか、築地第七営業局員である訴外田沢及び訴外遠藤と四人で夕食をとり、その後、一郎と訴外坂本はペンションで同室であったため、同じ部屋に行った。右部屋において、一郎は、自分で何を悩んでいるのかわからない等と言っており、訴外坂本が会社を辞めたいのかと尋ねたところ、そんなことはない、分からないと答えた。訴外坂本は、その件については、このイベントが終わったら、しばらく休暇をとる等して、訴外滝口も含めて三人で相談しようと言った。それから、一郎と訴外坂本は、テニスプレーヤーの訴外神和住純が来たという連絡が入ったため、同人に挨拶するために出掛け、午後一〇時三〇分ころ、同部屋に戻った。一郎と訴外坂本は、同日午後一二時ころまで起きて話をしていた。

(3) 同月二五日(日)

一郎は、味の素の関係者とテニスをするため、午前六時三〇分ころ起床して出掛けたが、思うようなテニスができなかった。一郎は、午前八時ころペンションに戻ってきたが、「全然テニスができなかった。汗はかくし。」等と述べていた。その後、近くのレストランで昼の会食のために、TBSのスタッフの手伝いをし、リスナーの送迎等をした。午後五時三〇分ころ、森山良子のコンサートが開演し、午後八時ころ終了し、午後八時からは宇宙飛行士秋山氏の講演会(コスモトーク)が始まった。午後九時ころから一つのペンションでスタッフの打ち上げが行われ、訴外坂本及び一郎ともに参加したが、一郎は酒を飲んで嘔吐したりした。訴外坂本が気づいたときには、一郎の姿はなかった。

(4) 同月二六日(月)

午前一時三〇分ころ、訴外坂本がペンションへ戻ったところ、一郎はTBS関係者の部屋で眠っていたため、訴外坂本が一郎を起こして、自室へ連れていった。一郎は、午前八時ころ起床し、午前九時ころ、訴外坂本とともに、リスナーに芋堀りを体験させるという企画のためリスナーを八ケ岳農業大学へ連れて行った。芋堀りは、午前一一時三〇分か一二時ころには終了し、昼食を食べた後、リスナーをバスに乗せた。午後一時から、ラジオ局のワイド番組の生放送があり、芋堀りを取り上げたため、一郎は芋堀り会場に、午後一二時五〇分ころ出掛けた。その後、一郎と訴外坂本は会場の後片付けを行い、午後二時ころ、訴外坂本は先に自分の別荘に帰った。一郎は、イベントの終了後である午後五時ころ、原村から訴外甲野に電話を架けたが、特に訴外甲野と会う約束はしなかった。一郎は、午後五時ころには、原村を自車で出発した。

イベント期間中、一郎と一緒にいたTBSの訴外松本は、一郎が、原村での三日間は、従前とはイメージが変わって、きつい感じがなくなり、優しくなっており、従前の大声で笑う笑顔がまったくなかったと感じていた。

(5) 同月二七日(火)

一郎は、同月二七日午前六時ころ、自車で帰宅し、その際、原告洋子に会ったが、無口な感じであった。一郎は、弟に対し、「会社に行かないで、医者に行く。」と話し、午前九時ころ、同僚に電話して、「体調が悪いので会社を休む。」と告げたが、午前一〇時ころ、自宅において自殺していることが確認された。

二  証拠(甲一、二六、二七の1、2、証人金子嗣郎)に、加藤正明ほか編・精神医学辞典・弘文堂を総合すると、うつ病などについては、次のとおり認められる。

うつ病は、抑うつ、制止など一定症状からなる情動性精神障害である。

うつ状態とは、主観面では気分の抑うつ、意欲低下、生命感低下、客観面ではうち沈んだ表情、思考と行動の減少ないしは緩慢化、生命機能の変化(自律神経症状など)で代表される状態像をいう。自我感情が低下し、そのため自己を過小評価し、能力が皆無であるとの劣等感を抱いたり、自分の置かれた状況を、不治の病、破産状態などと悲観的に考え、虚無的な絶望感に襲われる。終には生き甲斐のない人生をはかなんで自殺を考えたり実行したりする。気分が一日のうちでも動揺し、朝方悪くて、夕方よくなることが多い。抑うつ気分に由来する妄想様観念が生じることもあり、自分の健康を疑う心気妄想、経済的破綻を恐れる貧困妄想、その他、罪業妄想、否定妄想、虚無妄想などを抱く。欲動面では、決断力が鈍り、すべての行為は渋滞して動作がのろい。何をするにもおっくうで、新しい仕事を企てたり、人と会ったりすることはもちろん、起床、洗面、着衣、食事のような日常の行動にも長い時間がかかり、この運動制止が進むと抑うつ性昏迷に陥る。身体面では、顔色すぐれず、生気なく、睡眠障害(しばしば早期覚醒、ときに過眠)、食欲不振、便秘、性欲減退、体重減少、身体のあちこちの痛み、胸部圧迫感、頭重感、心悸亢進、口渇など多彩な症状を呈する。

うつ病の誘因としては、様々あるが過度の心身の疲労状態(消耗抑うつ)や目標達成による急激な負担の軽減(荷おろし抑うつ)等があげられており、また、いわゆる執着気質の人、すなわち仕事熱心、凝り性、徹底的、正直、几帳面、強い正義感や義務感、ごまかしやズボラができない人にうつ病親和性があるといわれている。

うつ病患者は、健常人に比して自殺を図ることが多いというのが医学的には定説であり、特にうつ病が悪化する際及び逆に軽快に向かう時に自殺する事例が多い。荷おろし状態の時も自殺しやすい状況ということができる。

三  以上の事実に基づき、各争点につき判断する。

1  一郎の労働時間の過剰性について

(一) 一郎の申告にかかる勤務状況報告表によれば、同人の平成二年七月から平成三年三月までの九カ月間の平日の時間外勤務時間は、前記のとおり695.5時間であるから、一カ月当たりの平日の時間外勤務時間は、約77.27時間となる。一カ月を三〇日とし、休日として四週間分の土日分八日間を除いた二二日で除すると、平日の平均の残業時間は約三時間三〇分となり、一郎の平日の平均勤務終了時刻は午後九時ころということになる。また、休日勤務については、同表により申告されているのは、右九カ月間に、27.5時間であるから、一カ月当たりの休日の勤務時間は約三時間ということになる。

次に、平成三年四月から同年八月までの五カ月間の平日の時間外勤務時間は、前記のとおり265.5時間であるから、一カ月当たりの平日の時間外勤務時間は、約53.1時間となる。一カ月を三〇日とし、休日として四週間分の土日分八日間を除いた二二日で除すると、平日の平均の残業時間は約2.41時間となり、一郎の平日の平均勤務終了時刻は午後七時五五分ころということになる。また、休日勤務については、同表により申告されているのは、右五カ月間に、30.5時間であるから、一カ月当たりの休日の勤務時間は、約6.1時間ということになる。

(二) これに対し、監理員巡察実施報告書上は、一郎が深夜午前二時以降に退館した社員として記載されている回数は、休日も含めて、前記のとおり、平成二年六月は一回、七月は四回、同年八月は五回、同年九月は二回、同年一〇月は三回、同年一一月は五回、同年一二月は六回である。すなわち、平成二年度中は、七カ月間に二六回、平均して月約四回は、一郎は、深夜午前二時以降に退館した社員として記載されている。平成三年に入るとその数はさらに増加し、同年一月は一〇回、同年二月は八回、同年三月は七回と、右三カ月間は休日も含めて月平均約八回、すなわち、四日に一度の割合となる。同年四月に入ると、同月は六回、同年五月は五回、同年六月は八回と、右三カ月間は休日も含めて月約6.3回、すなわち約五日に一日の割合となるが、同年七月に入ると、再び増加し、同年七月は一二回、同年八月は、一郎が死亡する前日である二六日までの間に一〇回と、約五日に二日の割合で、深夜午前二時以降に退館した旨記載されている。

また、平成三年に入ると、監理員巡察実施報告書の「時間」欄に、徹夜と記載される日も見られるようになる。その回数は、同年一月は二回、同年二月は四回、同年三月は二回、同年四月は一回、同年五月は一回、同年六月は一回であるが、同年七月に入ると著しく増加し、同月は八回、同年八月は、一郎が死亡する前日である二六日までの間に六回であり、最終の二カ月間については、休日も含めて四日に一回は徹夜と記載されている。また、同年八月については、一郎が、原村に出張する前の二二日までの間に、午前二時以降に退館した日は一〇回、監理員巡察実施報告書の「時間」欄に、徹夜と記載された回数は六回であり、休日も含めて約二日に一回は午前二時以降に至るまで残業し、休日も含めて約三日に一回は午前六時三〇分に至るまで残業したことになる。

(三) このように、一郎の勤務状況報告表から算出される平均勤務終了時刻と、監理員巡察実施報告書上の退館時刻との間には、大きな開きが見られるところ、監理員巡察実施報告書上に記載された日時については、その退館時刻に一郎が退館したことについては、当事者双方に争いがない。とすると、一郎が、その申告した残業時間を超えて被告会社内に在館した場合について、申告上の残業時間と在館時間との差をどのように理解すべきかが問題となる。この点につき、原告らは、これを残業していながら申告しなかった労働時間、すなわちサービス残業に充てられたものであると主張し、他方被告は、勤務状況報告表に記載された残業時間が真実であり、一郎はその業務とは無関係に社内に在館していた旨主張する。

確かに、証人高橋も証言するように、深夜に至るまで会社内に在館する場合には、一郎は、夕食を取ったり、休憩を取ったり、翌朝に至るまで在館する場合には仮眠を取る等の行動があったものと認められる。

しかしながら、一郎は、少なくとも四〇社をスポンサーとして担当し、そのうちの数社に対し、同時並行的に、タイムセールス、イベントの企画立案等を行い、スポンサーの窓口となる営業局員と打合せをし、また自らスポンサー先に出向く等していたことに加え、同人には、新入社員として求められる作業もあり、また年次の高い営業局の社員等からは、本来は同人の業務でない雑用を求められることもあったこと等からすれば、その処理していた業務は、相当多いものであったと認められること、一郎と同期入社でラジオ局スポット推進部に配属となった訴外高橋は、スポンサーとして三〇社前後を担当したが、いつも午前一時や二時まで残業し、さらに緊急の仕事を仕上げるため朝まで被告社内に残ることもあったというのであるから、同人よりもさらに担当するスポンサー数の多かった一郎は、訴外高橋以上に労働時間を必要としたと推認されること、訴外高橋は、残業時間が月間九〇時間を超えると、作業内容等について上司から理由を聞かれ、それを説明しなければならなかったことから、上司に説明できる自信のない業務は、それに要した残業時間を控除した上で、勤務状況報告表に記載しており、一郎についても同様な状況にあったと考えられること、一郎の職場は、午後八時以降にならないと落ちついて自分の仕事ができなかったため、同人は、それ以降から企画、立案等を始めていたから、同人の勤務状況報告表に記載された残業時間から算出される平均勤務終了時刻である、午後九時ころ(平成二年度)や午後七時五五分ころ(平成三年度)などに、その業務が終了していたとは到底考えられないこと、訴外高橋は、会社に在館中の一郎は、基本的に仕事をしていたと証言しており、訴外坂本も深夜職場において一郎が仕事以外のことをしていた形跡は認めなかった旨証言していること、平成三年一月から一二月までの期間を対象とした、被告の労働組合の調査によれば、午後一〇時以降の勤務状況報告表への記載について、真実と異なる申告をした者の割合が、男子につき42.9パーセント、女子につき58.7パーセントに及んでいること等の事情を総合して考慮すれば、一郎が、右退館時刻までの間に食事や仮眠等の行動をしていたとしても、それらは残業に付随して、これに必要な限りでなされたにすぎず、その大半は自己の業務を処理するために充てられていたと認めるのが相当である。したがって、勤務状況報告表から算出される平均勤務終了時刻と、監理員巡察実施報告書上の退館時刻との差は、実際には、基本的に、残業に充てられていたものと認めるのが相当である。

(四) そうすると、一郎は、休日も含め、平成三年一月から同年三月までは、四日に一度の割合で、同年四月から同年六月までは約五日に一日の割合で、同年七月及び八月については、五日に二日の割合で、深夜午前二時以降まで残業していたのであり、いわば慢性的に深夜まで残業していた状態であったということができ、とりわけ同年七月及び八月については、休日も含めて四日に一回は午前六時三〇分に至るまで残業し、八月については、原村へ出張するまでの二二日間に、約三日に一回は午前六時三〇分に至るまで残業していたというものであるから、一郎は、社会通念上許容される範囲をはるかに超え、いわば常軌を逸した長時間労働をしていたものというべきである。

2 一郎の業務と自殺との因果関係について

(一)  前記認定の事実によれば、一郎は恵まれた環境に育ち、心身とも健康で、希望と熱意に燃えて被告に入社し、ラジオ局ラジオ推進部に配属後の慢性的な深夜に至る残業にもかかわらず、総じて平成二年度中は、自らの業務に面白さを感じ、明るく元気に仕事に取り組んでいたものということができる。しかしながら、平成三年になると、休日、平日を問わない、深夜に至るまでの長時間残業の状態がさらに悪化し、同年七月には、四日に一度は午前六時三〇分まで残業するという状況にまで至り、一郎は、顔色が悪くなり、元気がなく、うつうつとした暗い感じになり、仕事に対して自信を喪失し、精神的に落ち込み、二時間程度しか眠れなくなったというのである。そして、右のような事実経過によると、一郎には前記のうつ状態に符合する諸症状が窺われるほか、一郎には精神疾患の既往はなく、家族歴にも精神疾患はないことをも考慮すれば、一郎は、常軌を逸した長時間労働とそれによる睡眠不足の結果、同年七月ころには心身共に疲労困憊し、それが誘因となって、うつ病に罹患したものと認めるのが相当である。にもかかわらず、同年八月には、労働時間はさらに増加し、原村へ出張するまでの二二日間は、三日に一度は午前六時三〇分まで残業し、ほとんど自宅にも帰宅しない日々となり、傍目にも明らかに元気がなくなり、自分は役に立たないといった自信を喪失した言動や、人間としてもう駄目かもしれないといった自殺の予兆であるかのような言動や、無意識のうちに蛇行運転やパッシングをしたり、霊が乗り移ったみたいだと述べるといった異常な言動等をするようになり、また、肉体的には、顔色不良、睡眠障害、痩せ、顔面上の赤い斑点、コンタクトレンズや喉の不調といった症状が現れ、疲労によるうつ病が進むなかで、同月二三日から二六日までの原村でのイベントが終了して仕事上の目標が達成され、肩の荷が下りてほっとするとともに、翌日から再び同様な長時間労働の日々が続くことに虚しい気持ちに陥り、そのうつ状態がさらに深まったために、その結果として自殺したものと認めるのが相当である。

(二) これに対し、被告は、一郎の個人生活、家庭環境等の事情が自殺の原因である旨主張し、乙三六は、うつ病と一郎の自殺との関係は否定できないものの、すべてのうつ病が自殺に走る訳ではないとし、また、うつ病を発症し、さらに自殺に至らしめた大きな要因は、一郎の几帳面、完全主義、細部にとらわれやすい性格、悩みやわからないことを他人に気軽に口にしない性格にあったとしている。確かに一郎には、几帳面、完全主義といった性格があり、それが仕事の進行を遅らせ、また、仕事に対する時間配分を不適切なものにしたという側面はあったとしても、前記のとおり、一郎が仕事に対する時間配分等について悩んでいたのは平成二年度までであったこと、一郎と同期でラジオ局スポット推進部に配属された訴外高橋も、午前一時や二時に至るまで残業をするのが通常であったこと、被告においては、社員の三六協定に違反した深夜に至る残業が従前からの懸案事項であったこと等からすれば、一郎の長時間労働は、同人の性格に起因する一面は否定できないものの、基本的にその業務の多さに由来するものと認めるのが相当である。そして、その労働時間が、著しく長時間に及び、ことに自殺直前の八月には、約三日に一回は午前六時三〇分に至るまで残業をするという異常な状況であったことに照らして考えるならば、うつ病は一郎の性格もさることながら、長時間労働及びそれに基づく睡眠不足による疲労という誘因が存在した結果であると認めるのが相当である。また、前記認定の事実関係を総合考慮しても、訴外甲野との交際を含む同人の個人生活ないし家庭環境に、同人をして自殺に至らしめると合理的に推認できるような事情は、何ら存しないというべきである。

そして、前記のとおりの一郎の長時間労働、平成三年七月ころからの同人の異常な言動等に加え、うつ病患者が自殺を図ることが多いことも考慮すれば、一郎が常軌を逸した長時間労働により心身共に疲弊してうつ病に陥り、自殺を図ったことは、被告はもちろん通常人にも予見することが可能であったというべきであるから、一郎の右長時間労働とうつ病との間、さらにうつ病と一郎の自殺による死亡との間には、いずれも相当因果関係があるというべきである。

3 被告の過失の有無

(一)  被告は、雇用主として、その社員である一郎に対し、同人の労働時間及び労働状況を把握し、同人が過剰な長時間労働によりその健康を侵害されないよう配慮すべき安全配慮義務を負っていたものというべきところ、一郎は、前記のとおり、社会通念上許容される範囲をはるかに逸脱した長時間労働をしていたものである。そして、一郎が、しばしば翌朝まで会社で徹夜して残業をすることは、その直属の部長である訴外滝口が、すでに平成三年三月ころには知っており、一郎の直属の班長である訴外坂本にこれを告知したが、訴外滝口自ら一郎の長時間労働を軽減させるための措置は何ら取らなかったこと、これを聞いた訴外坂本は、一郎に対し、なるべく早く仕事を切り上げるようにとは注意したものの、単なる指導に止まり、一郎の長時間労働を減少させるための具体的な方策は何ら行わなかったこと、訴外坂本は、同年七月には、一郎の顔色が悪く、その健康状態が悪いことに気づいていながらも、何らの具体的な措置を取らないまま、同人が従前どおりの業務を続けるままにさせたこと、同年八月に至っては、一郎は、訴外坂本に対し、自分は役に立たないといった自信を喪失した言動や、人間としてもう駄目かもしれないといった自殺の予兆であるかのような言動や、無意識のうちに蛇行運転やパッシングをしたり、霊が乗り移ったみたいだと述べるといった異常な言動等をするようになり、また、肉体的には、顔色が悪い、明らかに元気がない等の症状が現れ、訴外坂本も一郎の様子がよりおかしくなっていることに気づきながら、一郎の健康を配慮しての具体的な措置は、なお何ら取らなかったこと等の事情に鑑みれば、被告の履行補助者である訴外滝口及び訴外坂本には、一郎の常軌を逸した長時間労働及び同人の健康状態の悪化を知りながら、その労働時間を軽減させるための具体的な措置を取らなかった過失があるといわざるを得ない。したがって、被告は、その履行補助者である訴外滝口及び訴外坂本の安全配慮義務の不履行に起因して、一郎が被った損害を賠償する義務があるというべきである。

(二) これに対し、被告は、健康管理センターの設置、深夜宿泊施設の確保、出勤猶予制度の設置、タクシー乗車券の無制限の配付、特に時間外労働の多い社員に対するミニドックでの受診の義務づけ、勤務状況報告表による社員の労働時間の把握、社員の労働時間の改善について労働組合と協議していること等から、安全配慮義務を尽くしていると主張する。

しかしながら、社員の労働時間を把握するための資料として被告が用いている勤務状況報告表が真実を反映するものでなかったことは前記認定判断のとおりであり、平成三年一月から一二月までの期間を対象とした、被告の労働組合の調査によれば、午後一〇時以降の勤務状況報告表への記載について、真実と異なる申告をした者の割合が、男子につき42.9パーセント、女子につき58.7パーセントに及んでいること、三六協議会においては、従前から恒常的長時間労働が問題とされ、三六協定に違反する社員の長時間労働が従前からの懸案事項であったこと、訴外高橋も、その真実の残業時間をそのまま勤務状況報告表に記載していたわけではなかったこと等の事情を総合して判断からすれば、社員がその残業労働を勤務状況報告表に過少申告していたことは、被告においては、いわば常態化していたことであり、被告もこのことを認識していたと認めるのが相当である。しかるに、被告は、例えばミニドックの受診の要否を勤務状況報告表に記載された労働時間に基づいて判断していたのであって(証人金森康雄により認める。)、被告が準備した健康管理の措置は実質的に機能していないものであることは明らかであり、そのような状況下では、健康管理センターの設置やタクシー乗車券の無制限の配付等、被告の主張する安全配慮義務を具体化する措置のみでは、社員の労働時間を把握し、過剰な長時間労働によって社員の健康が侵害されないように配慮するという義務の履行を尽くしていたということができず、被告の右主張は理由がない。

(三) なお、前記(一)のとおり、訴外滝口及び訴外坂本に、一郎の常軌を逸した長時間労働及び同人の健康状態の悪化を知りながら、その労働時間を軽減させるための具体的な措置を取らなかった過失がある以上、同人らは、民法七〇九条に基づく不法行為責任を負い、したがってまた、同人らの使用者である被告は、民法七一五条に基づく責任を負うというべきである。

四  損害

1  死亡逸失利益

九五八八万〇五八八円

(一) 年収分

九〇六三万三三二五円

平成四年当時の被告社員のモデル年収が、別表「資格及び年次」欄、同「年齢」欄及び同「年収」欄記載のとおりであったことは争いがないところ、一郎が死亡しなければ、同人は、被告の定年である六〇歳に至るまでの三六年間につき、被告会社にて勤務し、別表「年収」欄記載の各年度毎の年収を得ることができたと推認される。

そこで、一郎が独身であったことから、別表「生活費控除率」欄記載のとおり、生活費として五〇パーセントを控除し、別表「ライプ係数」欄記載のとおり、ライプニッツ方式により中間利息を控除して、一郎の死亡逸失利益の自殺当時における現在額を算出すると、別表「合計」欄記載のとおりとなる。

(二) 退職金分

五二四万七二六三円

一郎が死亡しなければ、同人は、被告の定年である六〇歳に至るまでの三六年間、被告会社にて勤務し、退職時には退職金を得ることができたと推認されるところ、証拠(乙一四)によれば、退職金は、勤続三年以上で退職した社員に対して、退職時の本俸に満六〇歳までの勤続年数に対応する乗率係数を乗じて計算された金額から、一〇〇〇円未満を切り捨てた金額であること、勤続年数三六年間に応じた乗率係数は61.9であることが認められる。そして、弁論の全趣旨によれば、一郎の退職時の本俸は、月額四九万円であることが認められることから、乗率係数61.9を用いて一郎の得べかりし退職金を計算し、三六年間の中間利息をライプニッツ方式により控除して、一郎の死亡時の現在額を算出すると、右金額となる。

490,000×61.9×0.173=5,247,263

(三) なお、原告らは企業年金分も逸失利益として請求するが、証拠(乙一四)によると、退職年金のうち第一種退職年金を受けるには、勤続一五年以上で退職時の年齢が五五歳以上であることが必要であり、同じく第二種退職年金は、電通厚生年金基金の加入期間が一カ月以上ある人が、退職して六〇歳になったとき、又は六〇歳以上で退職したときに支払われるのであり、一郎は死亡時にその資格を有しておらず、また近い将来その資格を有することが確実であるともいうことができず、その請求は認めることができない。

2  死亡慰謝料 二〇〇〇万円

一郎が前途有望な青年であったこと、自らの寝食を忘れて被告における業務に没頭した結果、うつ病に罹患して自殺するに至ったこと、その他、本件に顕れた一切の事情を斟酌すれば、一郎の本件死亡による精神的苦痛を慰謝するための金額は、右金額とするのが相当である。

3  以上により、一郎の総損害額は一億一五八八万〇五八八円であるところ、相続により、原告久光及び原告洋子がそれぞれその二分の一である五七九四万〇二九四円を取得したものということができる。

4  弁護士費用

原告らが本件訴訟の提起及び遂行を原告ら代理人に委任したことは当裁判所に顕著であるところ、本件事案の内容、審理経緯及び認容額等を考慮すると、原告らの本件訴訟遂行に要した弁護士費用は、原告久光及び原告洋子につきそれぞれ五〇〇万円、合計して一〇〇〇万円を認めるのが相当である。

五  以上によれば、原告らの被告に対する請求は、原告ら各人に対しそれぞれ六二九四万〇二九四円、及び、これらに対する一郎の死亡の日以後の日である平成三年八月二八日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから、これを認容し、その余は失当であるからいずれも棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条、九二条本文を、仮執行の宣言について同法一九六条一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

別表

資格及び年次

年齢

年収

生活費控除率

ライブ係数

現在価

社員3

25

4,930,000

0.5

0.952

2,346,680

4

26

5,240,000

0.5

0.907

2,376,340

5

27

5,500,000

0.5

0.863

2,373,250

主事1

28

6,880,000

0.5

0.822

2,827,680

2

29

7,400,000

0.5

0.783

2,897,100

3

30

7,850,000

0.5

0.746

2,928,050

5

31

8,020,000

0.5

0.71

2,847,100

副参事1

32

9,250,000

0.5

0.676

3,126,500

2

33

9,650,000

0.5

0.644

3,107,300

3

34

9,970,000

0.5

0.613

3,055,805

6

35

10,290,000

0.5

0.584

3,004,680

参事1

36

11,690,000

0.5

0.556

3,249,820

2

37

12,140,000

0.5

0.53

3,217,100

3

38

12,460,000

0.5

0.505

3,146,150

4

39

12,770,000

0.5

0.481

3,071,185

5

40

13,070,000

0.5

0.458

2,993,030

6

41

13,340,000

0.5

0.436

2,908,120

7

42

13,590,000

0.5

0.415

2,819,925

8

43

13,820,000

0.5

0.395

2,729,450

副理事1

44

15,290,000

0.5

0.376

2,874,520

2

45

15,710,000

0.5

0.358

2,812,090

3

46

15,980,000

0.5

0.341

2,724,590

4

47

16,080,000

0.5

0.325

2,613,000

5

48

16,110,000

0.5

0.31

2,497,050

6

49

16,110,000

0.5

0.295

2,376,225

7

50

16,110,000

0.5

0.281

2,263,455

8

51

16,110,000

0.5

0.267

2,150,685

52

16,110,000

0.5

0.255

2,054,025

53

16,110,000

0.5

0,242

1,949,310

54

16,110,000

0.5

0.231

1,860,705

55

16,110,000

0.5

0.22

1,772,100

56

16,110,000

0.5

0.209

1,683,495

57

16,110,000

0.5

0,199

1,602,945

58

16,110,000

0.5

0.19

1,530,450

59

16,110,000

0.5

0,181

1,457,955

60

16,110,000

0.5

0,172

1,385,460

合計

90,633,325

(裁判長裁判官南敏文 裁判官竹内純一 裁判官波多江久美子)

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